真空管はなぜ歪みが心地よいのか — PySpice で見て、トランジスタとオペアンプで再現を試す

  • spice
  • python
  • ギター
  • 電子回路
  • 音響

子供の頃、父が真空管のアンプを使っていたのを覚えています。スイッチを入れてもすぐには音が出なくて、ガラスの中の金属が じわっとオレンジに灯る まで、少し待たないといけませんでした。小さかった私は「すぐ音出るやつのほうがよくない?」と思ったものですが、父は別段急ぐ様子もなく、待っていました。

その「待ち時間のある音」が、ギタリストの間ではいまもしぶとく生き残っています。ボードに最新のデジタルマルチエフェクターを並べたうえで、足元に真空管プリアンプを 1 段だけ挟む人もいる。スマホで一瞬で音が出る時代に、です。

不思議ですよね。半導体は速くて小さくて安くて寿命も長い。なのに、わざわざ熱くて重くて壊れやすい真空管を、いまだに使いたがる人がいる。今日は 「なぜ真空管はそんなに好かれるのか」 を、難しい数式は最低限にして、Python で波形を描きながら のぞいてみたいと思います。後半では、「トランジスタやオペアンプで真空管の音は再現できないのか」も、ちょっとだけ試します。父にはまだ見せていません。見せたら、たぶん「で?」と言われると思います。

「歪み」って、そもそも何の話?

まずは音を出さない方の話から。アンプの仕事は、入ってきた小さな信号を、形を変えずに大きくする こと、ということになっています。1 V 入れたら 10 V 出る、2 V 入れたら 20 V 出る。倍率は同じで、波の形はそっくりそのまま大きくなる。これを「線形」と呼びます。

ところが現実のアンプは、ある所までいくと「もうこれ以上大きくできません」と頭打ちになります。ガソリンの量を増やしてもエンジンの回転数には上限があるのと同じです。これを クリッピング (clipping) と言います。波の上下が頭打ちで切り取られる、というイメージです。

ギタリストが「歪み」と呼んでいるのは、ほぼこの クリッピングの状態に持っていって、わざと波の形を変える こと。きれいな正弦波 (サイン波) を入れても、出てくる波形はもう正弦波ではない。波形の頂上が潰れて、台形や四角に近くなっていく。

ここで真空管とトランジスタの 個性 が出てきます。「同じように頭打ちになる」けれど、頭打ちの仕方が違う。これがじわじわと音の印象を変えます。

真空管とトランジスタは、波の「曲げ方」が違う

論より波形です。横軸を「入力電圧」、縦軸を「出力電圧」にして、両者の振る舞いを並べてみます。一方を「真空管っぽい」と書いていますが、これは実物の三極管 (12AX7 など) を完全に再現したものではなく、特徴的な振る舞い (上下非対称、丸い saturation) だけを残した玩具モデル です。本物の Koren SPICE モデルでも、単段クラス A の動作点ではだいたい同じ形になります。

真空管型は曲線で滑らかに、トランジスタ型は折れ線で角ばって saturate する。さらに真空管型は上下で saturation の高さが違い、非対称

点線が「もし完全な線形だったらこうなる」という理想線です。赤 の真空管型は、すーっとカーブを描いて、ふんわり頭打ちになっていきます。しかも 上と下で頭打ちの位置が違います — 上は +4 V くらい、下は -1 V のあたりで早めに止まる。この「上下が非対称」というのは、あとで効いてきます。

青 のトランジスタ型は、ある所までは線形にきれいに沿っていますが、限界に達したとたん がくん、と直角に近い角度で頭打ち になります。そして上下対称です。

人間が同じものに対して、「滑らかな曲線」と「角ばった折れ線」のどちらに好印象を持つかは、なんとなく想像がつくと思います。ただ、これだけだと「肌で感じる印象論」で終わってしまうので、もう少し物理に近づきます。

同じサイン波を入れてみる

横軸を時間にして、1 kHz (ピアノのいちばん高いほう、シ 5 = 約 988 Hz から半音ほど高い領域) の正弦波を入れた時、出口で何が起きているか。3 段階の「強さ」で並べてみます。

穏やかなとき、クリップの手前、強くドライブした時の出力波形。トランジスタ型は早く角ばり、真空管型は最後まで丸い

一番上の A: 穏やか な領域では、両方ともきれいな正弦波です。違いはほぼ見えません。「クリーントーン」とギターアンプの世界で呼ばれる領域はここに入ります。

真ん中の B: クリップの手前 までボリュームを上げていくと、見え方が変わります。トランジスタ側は、波形の頂上が 板で切ったみたい に水平になり、台形のシルエットになります。一方、真空管側は 頂上が丸く膨らんだまま。さらによく見ると、上の山と下の谷で 高さが違います — 上が +2.3 V くらいまで、下は -1 V のあたりで止まっています。伝達特性の非対称さが、波形の上下の非対称さとして出ています。

一番下の C: 強いドライブ ではもっと極端で、トランジスタはほぼ正方形 (square wave) になり、真空管はラグビーボールのような、上下非対称な「シルクハットを並べたみたいな」形になります。波の角は、最後まで丸いままです。

ギタリストはこの「角の丸さ」 と 「上下が違う」 を、感覚的に 「真空管っぽい歪み」 と呼んでいます。やわらかい、温かい、艶がある、と言ったりします。一方、トランジスタの角ばった波形は、しばしば 「冷たい」「硬い」「耳に痛い」 と表現されます。好み次第ではありますが、伝統的にはそう感じる人が多いという事実があります。

波形の形は、どんな音になっているのか — 倍音の話

ここで「波形が違うのは見れば分かるけど、それが音にどう関係するの?」というのが気になると思います。これは音を作っている 倍音 (harmonics) を見ると分かります。

音の世界では、1 kHz のサイン波がそのまま 1 kHz の純音として聞こえます。でも、その波形をちょっとでも歪ませると、整数倍の周波数 (2 kHz、3 kHz、4 kHz...) の成分 が後から付いてきます。これが倍音です。倍音の混ざり具合で、音色 (timbre) が決まります。同じ「ラ」を弾いても、ピアノとバイオリンで違って聞こえるのは、倍音の混ざり方が違うからです。

歪んだ波形を FFT (高速フーリエ変換、波形を周波数の足し合わせに分解する処理) にかけると、何 kHz の倍音がどれくらい混ざっているかが見えます。先ほどの B と C の状態で並べてみます。

tube は 2nd, 3rd, 4th, 5th... が全部混ざる (ただし 2nd が支配的)。transistor は奇数倍音 (3rd, 5th, 7th) のみ。偶数倍音は absent

縦軸は 1 kHz の元の音 (1st、基本波) を 0 dB とした時に、それぞれの倍音が何 dB 下にあるか です。下にいくほど小さい音、というイメージです (-20 dB は元の 1/10 の振幅、-40 dB は 1/100)。absent と書いてあるのは「ほぼゼロ、出てきません」という意味です。

真空管型 (赤) は、2nd (2 kHz)、3rd (3 kHz)、4th、5th... と倍音が全部出てきます。しかも 2 番目の倍音 (2nd) が一番強い。3 番目、4 番目はそれより下、5 番目以降は急に小さくなっていきます。

トランジスタ型 (青) は、奇数番目の倍音 (3rd、5th、7th) しか出てきません。波形が 上下対称 に頭打ちになっている時、偶数番目の倍音は打ち消し合ってゼロになる、という波の性質があるからです。真空管が上下非対称だったのが、ここでも効いてくるわけです。

ここからが面白いところ。「倍音が違う」のは音にどう響くのか。

実は 2 番目の倍音 (2 kHz) は、元の 1 kHz の「ちょうど 1 オクターブ上」と同じ音 です。「ド」と「1 オクターブ上のド」が同時にうっすら鳴っている、ということ。音楽でもっともハモる関係です。3 番目はそこから少しずれて「5 度」(ドとソ)、5 番目はもう一つ上で「3 度」(ドとミ) — このあたりまでは調和した音程です。ところが 7 番目以降になると、ピアノの鍵盤にぴったり収まらない、耳が「うるさい」「不協和だ」と感じやすい音程が増えてきます。

つまり乱暴に言うと、

  • 真空管: オクターブを中心に、ハモる倍音がぶら下がった豊かな音
  • トランジスタ (ハードクリップ): 調和音から始まって、次第に耳に刺さる音程まで奇数倍音が並ぶ

という違いが、波形の見た目の裏にいます。「真空管は温かい」「ハードクリップは耳に痛い」と感覚で言われてきたことの、ちょっとした物理的な裏打ちです。

では、トランジスタやオペアンプで真空管は再現できないのか

ここまでくると、ギタリストとしての次の問いは当然これです。「じゃあトランジスタ側の回路に工夫して、真空管っぽい歪みを作れないの?」

実は、これに挑戦したエフェクターは山のようにあります。一番有名な (たぶん中古でいま 1 万円以上することもある) のが Ibanez TS9 / TS808 Tube Screamer という、1980 年代のオーバードライブ系エフェクターです。中身を回路図で見ると、ものすごく雑にいえば、

  • オペアンプ (信号を拡声器のように大きくする IC) を 1 個
  • その出力と入力の間に、シリコンダイオードを 2 個、向き合わせ にぶら下げる

という構成が中心です。ダイオードを向き合わせにすると、信号が 上に振れすぎたら片方が止め、下に振れすぎたらもう片方が止め という、上下両側のブレーキになります。これでオペアンプ出力の暴れすぎを抑え込んで、波形をクリップさせる、というしくみ。

これを実 SPICE で組んでみました。入力を 5 mV、18 mV、80 mV と上げていって、出口で何が起きるか。

drive 5 mV はほぼ線形、18 mV でクリップ手前、80 mV で完全クリップ。波形の角は真空管より丸いが、倍音は奇数のみ

面白い発見が一つ。強くドライブしたとき (80 mV) の波形を見ると、上下の角がトランジスタの単純なハードクリップよりは 丸まって います。ダイオードのオン・オフが瞬間的ではなく、なめらかに切り替わるからです。耳には「やわらかい歪み」として聞こえます。だから Tube Screamer は世界中で愛されています。

ただ右側の棒グラフを見ると、奇数倍音 (3rd、5th、7th) だけ が並んでいて、2 番目 (オクターブ) はほぼゼロです。真空管が「2nd を中心とした豊かな倍音群」だったのに対し、Tube Screamer は 「角は柔らかいけれど、中身はトランジスタ歪み」 だった、ということ。

これは別に Tube Screamer をけなしているわけではありません — 角が丸いだけで音の印象は大きく変わるし、Stevie Ray Vaughan も愛用していた名機です。ただ、真空管らしい「オクターブの豊かさ」 は、上下対称のクリッパからは出てきにくい。これがダイオードを 2 個向き合わせるアプローチの限界です (シリコン + LED のように 左右で違うダイオード を組んで波形を非対称にすれば 2nd 倍音が顔を出します。エフェクター改造でよくやる手です)。

現代の答え: AI で真空管を「コピー」する

「じゃあ近似じゃなく、真空管そのものを丸ごとコピーできないの?」というのが、ここ 10 年くらいのデジタルギターアンプ業界の大テーマでした。

そして、いまの答えは「ほぼできる」。

ドイツの Kemper Profiler、米国の Neural DSP Quad Cortex、オープンソースの Neural Amp Modeler (NAM) などが、実機の真空管アンプを丸ごと持ち運べる形にしてしまう製品やプロジェクトです。やっていることはイメージとしてこう:

  1. 実物の真空管アンプに、いろんな信号を入れて出力を録音する
  2. 入力と出力のペアを AI (ニューラルネットワーク) に大量に見せて、「この入力ならこう返す」というクセを学習させる
  3. 学習後の AI は、その真空管アンプの振る舞いをリアルタイムにそっくり真似てくれる

これまでの「アンプシミュレーション」が 回路図から計算する 上からのアプローチだったのに対し、AI 系は 実機を黒箱にして、入力と出力だけから学ぶ 下からのアプローチです。

正直、条件さえ整えば ブラインドで聞き分けるのはかなり難しい レベルまで来ています。少なくとも私の耳では、よほど注意しないと分かりません。それでも「ノブを触ったときの手応え」とか「強く弾いた時のアンプ自体が呼吸する感じ」までは、まだ完全には捕まえられていない、というのがプロギタリスト側からよく聞く感想です。ここはまだ、真空管が逃げ切っている領域です。

結局、「真空管らしさ」とは何か

ここまでで分かったことを、雑にまとめておきます。

  • 歪み波形の角が丸い — これは Tube Screamer のようなダイオードクリッパでも作れる。だからオーバードライブ系エフェクターはたくさんある
  • 倍音構造が 2nd (オクターブ) を中心に広がる — これは 上下非対称なクリッピング が必要。対称な対向ダイオードでは作れない。非対称ダイオードや、本物の真空管なら作れる
  • 強く弾いたときの手応え (ダイナミクス) — これは静的な波形だけからは分からない、時間方向の振る舞い。最新のニューラルモデルでもまだ完璧には捕まえきれていない領域
  • 電源を入れて温まるまでの待ち時間、ガラスのオレンジ色、暑い夏に弾くと滲む音、いきなり真空管が抜けて怒られる経験 — これは音そのものとは別の、儀式と物語 の領域。ここは技術的にはたぶん再現不能で、しなくていい

私は自分でギターを弾くわけではないので、最後の「儀式と物語」の部分は、父の家のあのオレンジ色を思い出して書きました。あれは音そのものというより、「待っていれば、いいことが始まる」という静かな期待感 のことだったのかもしれません。

スイッチを入れて、ガラスの中がじわっと明るくなって、それから音が立ち上がる。あの「間」が、たぶん父にとっての贅沢でした。倍音の話で全部は説明できないし、たぶん説明しなくていい何かが、そこにはあります。ギタリストが真空管にこだわるのも、似たような何かなのかもしれません。

おまけ: コードと、ちょっと技術寄りの補足

ここから先は技術寄りなので、興味のある人だけどうぞ。

使ったもの: Python (numpy + scipy + matplotlib) と PySpice。Tube Screamer 風クリッパの部分だけは PySpice (ngspice 共有ライブラリ経由) で本物のネットリストを解いていて、それ以外の真空管・トランジスタ波形は numpy で書いた数値モデル で出しています。真空管側は Norman Koren の有名な 12AX7 SPICE モデルでも、単段クラス A の動作点条件ならだいたい同じ形になります。

真空管モデル (tube_stage) は、バイアスを 0 V からずらした tanh で「上下非対称なソフトクリップ」を素朴に表したもの。三極管の物理 (3/2 乗則、グリッド電流、カットオフ) そのものではなく、特徴的な振る舞いだけを残した玩具モデル と思ってください。トランジスタモデル (hard_symmetric_clipper) は np.clip による完全対称ハードクリップで、こちらも実機の BJT 共通エミッタ段とは厳密には違います (実機はもう少し非対称・丸まりがあります)。今回は「対称 vs 非対称」「ハード vs ソフト」の違いを綺麗に見せるための単純化です。

FFT のサンプリング は、信号 1 kHz に対してサンプリング 200 kHz、解析窓 8000 点 (= 40 周期ぴったり) でコヒーレントサンプリングしてあるので、窓関数なしでも倍音が滲まず、偶数倍音が出るか出ないかが厳密に判定できます。Tube Screamer 部分も同様にちょうど整数周期で切り出してから FFT しています。

動作環境: pip install PySpice scipy matplotlib と、別途 libngspice.so (ngspice の共有ライブラリ)。私は権限のない環境だったので、以前の記事 で書いた micromamba + conda-forge の経路で libngspice.so を入れました。

import numpy as np

def tube_stage(vin, gain=5.0, bias=0.35, sat=2.5):
    """三極管 "風" 非対称ソフトクリッパ (玩具モデル)。
    バイアスをずらして上下非対称のソフトクリップを作り、最後に DC を取り除く。"""
    y = -gain * (vin + bias)
    y_sat = sat * np.tanh(y / sat)
    return y_sat - sat * np.tanh(-gain * bias / sat)

def hard_symmetric_clipper(vin, gain=5.0, vsat_top=2.0, vsat_bot=-2.0):
    """理想対称ハードクリッパ (玩具モデル)。"""
    y = -gain * vin
    return np.clip(y, vsat_bot, vsat_top)

Tube Screamer 風クリッパは PySpice + 1N4148 + 反転オペアンプ (利得 -51) のネットリストです。再現したい方はコメントください、別記事にまとめます。

参考にしたもの (自分のメモを兼ねて)

  • W. M. Leach, Introduction to Electroacoustics and Audio Amplifier Design — クラシックな教科書
  • D. T. Yeh, J. S. Abel, J. O. Smith, "Simulation of the diode limiter in guitar distortion circuits by numerical solution of ordinary differential equations" (2007) — Tube Screamer 系のシミュレーション論文
  • N. Koren, "Improved vacuum-tube models for SPICE simulations" (1996) — 12AX7 などの SPICE モデルの定番
  • S. Damskägg ら, "Deep learning for tube amplifier emulation" (2019) — ニューラル系アンプモデリング初期の論文

次は何の話を書こうかなとつらつら考えていますが、楽器系の話はまた寄り道で書こうと思います。ハードと音は、相性がいいですね。

この記事は Zenn に初出したものを加筆・補足したものです ── Zenn の元記事を見る